『福島は語る』(2018)には衝撃を受けました。ドキュメンタリー映画の評価軸をかなり深いところで動揺させられたといっても過言ではありません。「何を撮るか」――その根本的な問題を差し置いて撮影だの編集だのと「どう撮るか」ばかりを論議することが、あれ以来すっかりむなしくなってしまった。それぐらいあそこに記録されていた福島の人々による語りの数々は、見ていて魂を揺すぶられずはおれぬ種類のものでした。
「第二章」と銘打たれた本作では、福島のなかでも特に津島という〈場所〉が見いだされたことにより、人々の語りはいっそうの凝集力を得たように思われます。その〈場所〉が失われた、少なくともかつてと同じかたちでは決して取り戻すことのできないものである事実には胸が塞がるばかりなのですが。
なぜこれほど証言者がみな雄弁なのか。それはいくら語りたくとも語る機会のなかったことを、撮り手が的確に引き出したからでしょう。津島地区の線量を計測する冒頭では、これじゃあとても帰れないねえという土井監督のものと思われる声がキャメラの背後から聞こえ、また女手一つで子供たちを育てあげた須藤カノさんのパートでは「死にたいとは思わなかった?」というような声が聞こえます。採録した文字面だけを見れば無神経とも受けとられかねないこの種の合いの手が、実際にはいっそう証言者の心を開かせ、ますます真に迫った言葉を引き出すことにつながっているのは映画を見れば明白です。この人なら話が通じると相手に信用してもらうこと――それは小手先の技術の問題などではなく、全人的なコミュニケーションの問題であるに違いありません。
上述の須藤カノさんをはじめ女性たちの証言にとりわけ心揺さぶられる本作ですが、同じカノさんが後半に再登場して、にわかには信じがたい酷い話を語りはじめるのには愕然とさせられます。当事者である隼人さんと玲さんがその証言を裏づけるに及び、見ているこちらはいよいよやりきれない気持ちになる。すると、深刻どころではない隼人さんの語りの中身とはまったく裏腹にうららかなうぐいすの鳴き声が、不意になまなましくマイクに拾いあげられます。残酷にして、だからこそ有限な人間の生にとって救いとなるかもしれない無関心な自然の拡がりが急に見る者に迫ってくることになるのです。これが最終章で津島への「帰郷」を果たした紺野宏さんの口から語られる自然への思いにつながっていく、といえば穿ちすぎでしょうか。
現在上映中のドキュメンタリー映画では『かづゑ的』(熊谷博子、2023)にも深い感銘を受けました。長島で80年暮らしてきた回復者の宮﨑かづゑさんが、熊谷監督に向かって初めに出す注文が凄い。一つは自分が入浴する姿を撮れと。もう一つは完成を急ぐな、(自分が生きているうちに)間に合わせようと思うなと。これだけでどれほど傑出した対象であるかは伝わるはずですが、この作品にも撮り手と対象との二つとない関係を見ることができます。